昔の日本の葬儀の歴史を振り返ろう!縄文から大正時代までの変遷を紹介
現代の葬儀といえば、通夜や葬儀・告別式が行われ、火葬が一般的な流れとなっています。しかし、古代から現代に至るまでの日本の葬儀は、どのように変遷してきたのでしょうか。今回は、縄文時代から大正時代までの日本における葬儀の歴史を振り返り、それぞれの時代ごとの葬儀の特徴や習慣を探っていきます。
縄文~弥生時代の葬儀(紀元前145世紀頃~3世紀頃)
以下では、縄文時代から弥生時代にかけての葬儀の様式やその背景を詳しく解説します。
縄文時代の屈葬
縄文時代において最も広く行われた埋葬方法は屈葬と呼ばれ、遺体を屈曲させた状態で埋葬するのが特徴でした。
この屈葬は、身体を曲げた状態で埋めることで、墓穴を掘る労力を軽減できるという実用的な理由や、死者を安らかに眠らせるための姿勢としても考えられています。また、一説には、胎児のような体勢をとらせることで、死後の世界での再生や転生を願う信仰もあったとされています。
加えて、屈葬される際には、石を抱かせたり、身体を縛るといった儀式的な要素も含まれており、これらは死者の霊がこの世に戻ってくることを防ぐための措置だと考えられているのです。
縄文時代の葬儀文化において、屈葬は遺体の処理方法として非常に広く普及しており、この風習は地域や時期によって異なるものの、縄文時代全体を通して一般的な葬送方法でした。
また、屈葬は日本独自の葬儀形式のひとつであり、ほかの国では非常に限定された地域でしか見られない特異な埋葬方法です。これにより、縄文時代の日本人の死生観が独特であり、死者の魂を安定させ、来世に向けて準備を整えるという精神的な側面が重要視されていたことがわかります。
弥生時代の伸展葬
弥生時代に入ると、屈葬に代わり、伸展葬が普及し始めました。
伸展葬は、遺体をまっすぐに伸ばした状態で埋葬する方法で、屈葬に比べてより儀式的な意味合いが薄れ、実用性が重視されるようになったと考えられます。この変化には、農耕の発展と稲作の普及が影響しているとされています。
稲作により人々の生活が定住化し、同じ場所に継続して住み続けることが一般的になったため、墓地が作られるようになり、葬儀の形式にも変化が生じたのです。また、弥生時代には大陸からの文化や技術が日本にもたらされ、土葬という形がより一層根付くことになりました。
伸展葬は、遺体を自然な姿勢で埋葬するため、労力がかかる屈葬に比べて合理的であったと考えられます。加えて、弥生時代の社会は階層化が進んでおり、特権階級の人々に対してはより豪華な埋葬が行われていたとされています。
副葬品として銅鏡や剣、土器などが遺体とともに埋葬されることも多く、この時代の葬儀には権力や地位を示す象徴的な意味も含まれていました。
古墳時代~飛鳥時代の葬儀(3世紀頃~710年)
以下では、古墳時代から飛鳥時代にかけての葬儀の移り変わりとその背景を探っていきます。
古墳時代の大型墳墓
古墳時代は、日本の支配者層が巨大な墳墓を築くことで、権力や地位を誇示する時代でもありました。
とくに、前方後円墳などの大規模な古墳が全国各地に作られ、そのなかには石室と呼ばれる部屋が設けられ、棺が納められました。この石室には、故人と共に銅鏡、宝器、武器、装飾品といった副葬品が埋められることが多く、故人の社会的な地位や権力を象徴するものでした。
これらの巨大な古墳の建造は、主に豪族や支配者層に限られ、彼らの死後もその影響力が認められる形で埋葬が行われたのです。一方で、庶民の葬儀に関しては、とくに目立った変化はなく、簡素な埋葬が続いていました。
庶民の遺体は、小さな墓穴に埋葬されることが一般的であり、副葬品も簡素なものに限られていたと考えられます。
飛鳥時代と火葬の始まり
飛鳥時代に入ると、646年に出された薄葬令によって古墳の築造が厳しく制限されるようになりました。
この法律は、過度な贅沢を排除することを目的としており、古墳の大きさや築造にかける期間、人員などが細かく規定され、大規模な古墳建造の時代は終焉を迎えました。
この背景には、政府の財政負担を軽減する意図や、仏教の教えが広まり、過度な死者の供養が抑制されたことが影響しています。
鎌倉時代~江戸時代の葬儀(1185年~1868年)
以下では、鎌倉時代から江戸時代にかけての葬儀の変遷を振り返り、それぞれの時代における葬儀の特徴や背景を詳しく見ていきます。
鎌倉時代と仏教の影響
鎌倉時代は、日本の葬儀文化において大きな転換期となりました。
この時期、浄土宗や浄土真宗などの仏教宗派が広く民間に普及したことで、火葬が次第に一般化しました。これまでの土葬に加え、火葬が新たな葬儀形式として受け入れられたのは、仏教の輪廻転生や浄土往生といった教えが人々の死生観に影響を与えたからです。
しかし、当時の火葬技術はまだ未熟で、遺体を完全に焼却するのが難しかったため、遺体を土に埋める土葬と併用される両墓制が広く行われていました。火葬を行った後に遺骨を土に埋葬する形が一般的で、これが後の寺院墓地文化の基盤となりました。
江戸時代の葬儀
江戸時代になると、仏教が社会全体に深く浸透し、寺院での葬儀が定着しました。
江戸幕府は、寺院を統制し、寺請制度を導入することで、人々がどの宗派に属しているかを把握していました。これにより、葬儀も仏教寺院で行うことが標準的となり、仏教と葬儀の結びつきが一層強固なものとなります。
江戸時代の葬儀は地域ごとに異なる風習が発展し、葬儀の形式も地方によって大きな違いが見られるようになりました。たとえば、関西地方では香典袋の水引に黄白の色が使われ、九州では友引の日にも葬儀が行われるといった独自の風習が見られました。
まとめ
日本の葬儀は、時代とともに大きく変遷してきました。縄文時代の屈葬から始まり、古墳時代の巨大墳墓、飛鳥時代の火葬の始まり、そして鎌倉時代の仏教の普及による火葬の一般化など、各時代ごとの葬儀の形式にはその時代の文化や宗教の影響が色濃く反映されています。現代の葬儀の原型は、大正時代に確立されましたが、その背景には長い歴史と変遷があります。
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引用元:https://saihokaku.jp/
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